<経歴>

名前  黒須 法明 (くろす のりあき)

 

昭和48年11月2日 元気良く生まれた模様。

 

4人兄弟の末っ子。

 

茨城県結城市で育ち5歳のころから、なんとなくフライパンをにぎる。

 

銀座久兵衛さま

乃木坂神谷さま(現在日比谷ミッドタウンにお店あり)

銀座凛さま  (現在銀座凛にしむらにて7丁目にお店あり)

 

と経て、当店現在の場所で16年目を迎える。

 

 

 

なんとなくもう少しご興味のある方は

スクロールしてくださいね。(ちょっと長いかもしれません。)

 

 

 

幼い当時、両親は朝早く出かけていた為(実家:石材業)おばあちゃんと

お留守番。ある時どうしてもホットケーキが食べたくて食べたくて・・・

でも、おばあちゃんには作り方がわからない。

 

じゃ~自分で作ると言い出し、当時土間でつくられた調理場で五徳にマッチで

火をつけ、勝手気ままに作るがまる焦げに。

(おばあちゃんもよく一人でやらせたものだと関心する)

それが悔しくて、何度も作るがうまくいかない。

 

当時、小麦粉と卵、少量の砂糖(貴重だったので)を水で溶いて流し込んだだけだったので、うまくいくはずがないのですがね。。。

 

それでも、おふくろは<上手に作ったね>って。

 

これが原点!

 

この魔法の言葉を言ってもらいたくて、またつくる。

 

こんな事を繰り返しているうちに小学校に入学。

 

実家の石材業も忙しく、職人さんのご飯も掃除も洗濯も全部おふくろの仕事。

その魔法の言葉を言ってもらいたくて、おふくろのそばでいつも手伝い。

ご飯を炊くのも、お茶を入れるのも、箸を用意するのも。家事全般なんとなくやっている間にうまくなり、そのうち将来はコックさんになってみたいな~

なんて思い始める。

(当時、帝国ホテルの村上料理長がよくテレビで紹介されていて

 またこれが美味そうに作るんですよ!これに憧れたわけです)

 

中学生になると早く仕事がしたくて、卒業したら東京に出る!

なんて両親に言ったら・・・

<いまどき高校くらい出ていないと、どうにもならない>と諭され

あれやこれやと探すが、まったく勉強に興味がない私には地元の高校も

入れるのかわからない状況。

 

そんな中、とある学校に目が留まる。

 

調理科!!!

 

これだ!これしかない!と。

 

そこから勉強して・・・・(笑)

 

なんとか宇都宮短期大学付属高校調理科に無事入学! パチパチ。

 

早速アルバイトを。(ほんとはダメなんですがね。もう時効です)

 

駅前にあるお蕎麦屋に。

ここがなんでも作るところで、

手打ちそば、うどんをはじめ

とんかつ、てんぷら、焼き鳥、ウナギのかば焼き、釜飯、寿司

終いには、コーヒーまでネルのフィルターで入れる手の込んだお店でした。

 

最初の仕事は、玉丼をつくるのが仕事で(卵と玉ねぎだけのシンプルな丼ぶり)

そのうち、三枚肉を切りとんかつ。

ウナギを焼いて蒸す、かんぴょうを巻き、うどんを踏んで、天丼、釜飯、と

何でもさせてもらいました。

 

当時16歳!若い!

 

ここの御店主も奥様も褒めるのが上手で、その気になって何でも

こしらえていました。懐かしいですね。(現在は閉店)

 

1年生、2年生とお世話になりましたが

なんとなく、いろいろと他店も見たくなり

応募もしていないのに、履歴書を片手に忙しそうなおすし屋に。。。

(結城市にある福松というおすし屋さん。今でも有難く連絡あります)

 

その旦那が、暴走族上がりのこれぞ昭和のバリバリの板前さん。

 

働かせてもらえるのか?不安でしたが、面白いのがやってきたと

思ったんでしょうね。明日から来い!との事で、

おはようございます!って店に入ると・・・・・

 

ま~忙しい。ほとんど今までやってきたことが役に立っていない。(ハハハ)

 

相当どんくさく感じたんでしょうね。

ほぼ毎日怒鳴られ、蹴られ、殴られ。と、今ではブラック中のブラックに

当たるんでしょうね。笑

 

しかし出来ないのが悔しくて悔しくて。

 

またここでよく耳にしたのが、

 

>俺は27歳で独立したんだ!

>おめーにはできね~だろ。

 

これも男としては、悔しくて悔しくて。

絶対にやってやる!と泣きながら思いましたね。笑

(後の原動力に!)

 

ここでの厳しさが、どこに行っても役に立ち

どんなことにでも耐えることが出来ました。

(と言っても、こんな厳しいのはなかなかありませんが 笑)

 

今でも忘れません。

 

手を洗え!

 

これはよく怒られました。洗っていなかった日には

飛び蹴りですから・・・・

身長185cmの方が156cmの者に飛び蹴りがどれだけこたえるか!

殺されると本気思いました。笑。

 

でも、ツパッている高校生にこんな事でもしなかったら

覚えていないでしょうね。

ほんとうに今では感謝です。基本中の基本ですから。

 

そんな中、高校で講師をされていた蓮田先生と運命の出会い。

 

高校3年生の時、進路についてお話した際に(宇都宮で料理屋をしたい!)

と無邪気に発言。先生いわく、海なし県の栃木は魚料理を提供すると良い。

 

との事で、すし屋に行け!と。その代り5年で板前になれ!との指示。

(本気でヤレとの事なんですがね。)

 

そこでご紹介して頂いたのが、銀座久兵衛様!!。

 

銀座!と聞いただけでOK! 久兵衛さんの、きの字も知らない若者が

いきなりとんでもないお店に。(入社してから初めて知る 笑)

 

その後、ホテルオークラ、銀座本店といろいろな経験をさせて頂き・・・

 

(一番の思い出は・・・やはりビル・クリントン大統領と宮澤総理との会食に

 従事できた事が一番の誉れなんですかね。当時19歳!若い!

 旦那ともう一人の板前さんと私!エピソードがありすぎて書ききれませんが

 裏話はお店で!!)

 

5年目を迎え、帝国ホテル大阪さまにてカウンターに立つ。

ここで銀座ではあり得ない関西文化に出会う。

 

(笑 でも後の性格を変える。というか、関西文化の洗礼を受ける。

 しかし、一番最初に私が従事させていただいたお客様は、ありがたい事に

 いまだにご連絡を頂き可愛がっていただいております。それだけ心配

 なんでしょうね。笑)

 

 

残念ながら不本意な出来事で、また蓮田先生の指示を仰ぐ。

 

(真実を知りたい方はお店で!)

 

*あえてお書きしますが、骨を埋めるつもりで働いていました。

 

(久兵衛の旦那には、ありがたい事に今でもご指導して頂いております。)

 

今度はお料理屋に!との事で、六本木にある茶寮あら井様

(現在は閉店された模様。)に行くことに。

 

大阪から東京に向かう新幹線の中、今はまだあるのかぁ~<公衆電話>で

六本木で降りたらどこに行けばよいのですか?との問い合わせに

駅を降りたら、乃木坂に向かえ!との指示。訳も分からず、言われるままに。

 

乃木坂に着きました!というと、君は茶寮あら井じゃなくて

乃木坂神谷という店に行け!との事。(ここがポイント!人生の転換期)

 

(後でわかった事なんですが、その前の日に重要な2人がお辞めになってしまって

 午前中に神谷のおやじさんが蓮田先生に問い合わせ。何も知らない私が

 午後に東京に。そこでタイミングがバッチリあって・・・・

 

 ちなみにその辞めた2人のうちお一人は、あの三ツ星のシェフに。)

 

おやじさんを待っている間にデザートが。

このデザートが入社のきっかけに。

(うめぇ~。私にもできるのかなぁ~ *清見のデザート)

 

が、入社してからとんでもない店に来てしまった!

 

 

本人は(黒須)久兵衛様で板前さんになったつもりでいましたが(当時23歳)

全くの一からのスタート。いわゆるトイレ掃除からの始まり。

 

エピソードとしては、料理長が<葱を切ってください>との事。

お安い御用だ!なんて切ったところ・・・・

 

<まかないじゃなくて、お店用に切ってください!>って。

 

ガ~ン。

 

本人的にはかなり丁寧に切ったつもりでしたが・・・・

まったく使ってもらえず、2か月くらいは毎日毎日切りましたが

何が悪いのかもわかっていないので、どうにもなりませんでしたが

(今の私が見たら、同じようにしていたのかなぁ~)

 

なんとか3ヶ月目くらいに使ってもらえました。(そばの薬味ですよ!)

 

どんだけ使えないのか?不安になりましたがね。

 

 

ところで親父さんに、(どうして板前になろうと思ったのかね)との問いに

 

中学生の時に<史上初!テレビカメラが入った!料理の世界!>との

題名で、拝見したお料理屋さんがあまりに衝撃で、スゲ~と思って決めました!

と、お伝えすると・・・・

 

笑って、それは俺だ!って。

 

マジか!

 

あの時のお料理屋さんですか?(きくみという料理屋)

当時ではあり得ないくらい若い方が料理長になって(神谷の親爺さん当時27歳)

相当な天才だと、いうあの方ですか?

 

そうだ!あれは俺だ!。

 

いや~びっくり。ぷらぷらしている中学生が何気なしにみていたテレビ。

出演していた所に、来るなんて。。。

 

何かのご縁なんでしょうね。(笑)

 

でも泣くほど仕事はさせて頂きました。あり得ないくらい。(アハハ)

 

だいたい6時くらいに起きて、6時30分には調理場に。

(お店の上が寮になっていたので15秒で到着)

お昼の営業が終わり、ちょっと休憩。

夜の営業が終わり、酒でも飲んで寝るかって訳にはいかない。

 

ここからが勝負!

 

明日の仕込みの準備が終わったら・・・

 

まずはデザート。これが3種類くらいあって(2週にいっぺんくらい変わる)

これを何とかこなす。

 

そこから・・・

そばを打つ練習。

かつら剥き。

包丁を研ぐ。

金曜は寝ずに羊羹練り。

日本料理の本を読みまくり、親父さん並びに料理長が何を言っているを

わかるようにしてから次の日を迎える。

 

これが終わるのがだいたい2時から3時過ぎ。

 

終わってますね。(笑)

 

若いからできたのか?根性論?なのかは分かりませんが

とにかく無心で料理に打ち込む環境を提供していただいたのは間違いありません

 

そのうち、ウナギも割けるようになり、すっぽん、ふぐ、あんこう、

牛ロース、野菜全般などいろいろなものを経験させて頂き

2年くらい経つ頃には(仕込みに関しては)ほぼこなしていたと思います。

 

そしてまた、不本意な出来事が・・・・

親父さんに相談して退社することに。

3年間お世話になりましたが、実質10年くらいは従事した気分です。

(お話はお店で。)

 

神谷の親爺さんには、ありがたい事に今でもご指導いただいております。

 

 

そこでまたタイミングよく電話が。

>くろ~ 銀座の1丁目に新店を出すらしいので手伝ってやってよ。

 

と、久兵衛さん時代にそれはそれは良くよく遊んでくださった先輩から。

 

断れるわけもなく、なんとなく行ってみると・・・・

今はでは当たり前のデザイナーズ居酒屋。

いわゆるハシリのころですね。(銀座 独楽。今でも営業されてます!)

 

これがまた大変。

お刺身を切りながら炒飯をつくり、炭火を見ながら揚げ物やおでんを

盛ったりと、メニューも多数でしたね。

人気だった<ウニオムレツ>は何食作ったかわからないくらいご用意しました。

自分でも良くやったものだと感心します。(アハハ)

 

支店にも出向き従事しました。

そこは洋食のお店で、パスタ、ピザ、などよく作ったものです。

 

ここでの居酒屋経験が後の利益の出し方を考えるヒントを与えてくれました。

例えば大根の皮なんかはお料理屋さんでは、まかないにしかなりませんが

考え方次第で、漬物にしたり、刻んでサラダにしたり、大根おろしに合わせたりと考えたらキリがないくらいに料理になり、それが利益を出すんですね。

 

(よくここまでご覧になって頂きました!

  貴方も物好きですね。あともうちょっと!)

 

黒ちゃん!そこではなんだから、良かったら新店の話があるから来なさいよ。

って、神谷の親爺さん。

 

そんなことで、元を正せば1ヶ月のお手伝いのお店で奇跡の1年半もの間

従事いていたのですが、あえなく退社。

 

ただ・・・・

この独楽さんには現在中目黒で<てっぺん>など飲食店を展開する

株式会社MUGEN代表取締役の内山正宏さんとの出会いが、のち(いま現在)の

私に大きく影響を与える。(その当時は酒飲み仲間だったのですが)

 

その新店って言うのが、とある企業様の傘下で料亭とすし屋を営業するという

プロジェクトで、日本で有名な調理師会の会長さんが直接やるとのことで気合入りまくりの事業でした。ただ半年以上先の話で時間があるので助に行けとの事。

 

いわゆる助っ人ってヤツです。

 

ここで、築地の料亭さま、帝国ホテルさま、箱根の旅館さま、防衛省関係さま

と、いろいろと経験させていただきました。

(これ以上書くと一冊の本になってしまうので、あえて止めます)

 

そんなことしている間に、年が明けて調理師の会長にあいさつに。

 

会長曰く:あのプロジェクトはなくなったとの事。

 

ん?

 

マジ!

そんな簡単に言わないで!

これからどうすんの?って本気で思いましたね。

 

捨てる神あれば拾う神ありで、以前の居酒屋の社長に話をしたら

 

今度すし屋をつくるから一緒にやらない?との事。

 

人生何が起こるかわかりませんね。

 

そんなことで返り咲き。その後もいろいろございましたが銀座1丁目に

銀座凛さま完成!そして店長って言われるようになったのです。(パチパチ)

 

この店長って言葉に妙な違和感とプレッシャーを感じ(当時28,9歳)

そして、経営する大変さを覚えました。

売り上げが無いんです。

売り上げが。

 

今まで何気なしに飲食業に携わってきましたが、初めて今まで関わってきた

方々の顔が浮かび上がりました。

 

経営者って大変だ!

 

そしてこの時、夜中に帰ってテレビをつけたらベリチック(現ペイトリオッツのヘッドコーチ)の特集がやっていて、5年で3度のスーパーボールを制したその背景との事で、弱小チームのペイトリオッツがどうして強靭なチームに生まれ変わったと。その当時の私には相当な響きでした。

 

どのようにしたらチームがまとまるのか?

どのようにしたら勝てるのか?

どのようにしたら選手が育つのか?

等々、今でいえばマネージメントのことですが、

全くわかっていないんだってことが、涙ながらに番組を見ながら考えました。

アメフトだけではなく何にでも通じることなんだと。

 

ただ恐らく天才はいなくて、努力と経験、考え方やその使い方

これらを総合して何が必要で何が出来るのか?を考え、結果につなげる。

これが、出来るのか?出来ないのかではなく、やれるのか?やれないのかが

カギを握っていて、ベリチックはシーズンになると2時間くらいしか睡眠時間がないと話をしておりましたが、指示を出すものがいかに考え、行動に移せるかで

素晴らしい結果を作り出す。ここに面白みを感じましたね。

 

そんなことから、独立への意識が一気に高まった記憶がございます。

 

 

今度は自分のお店を出すことなったわけですから、不安や期待や入り混じって

ふわふわしていたと思います。

(退社後、お金がないのでヤマト運輸さまで夜間バイトもやりましたね。)ハハ

 

本当はお金もなかったので、行商をやろうと思ったんですよ。

じつは!

 

最初にやるんだったら、このくらいのスペースがいいんじゃないって?

と、不動産屋さん。要するに7坪物件。

(居酒屋つぼ八さまは、8坪から始めたので名前の由来になっているそうです)

 

今ではお座敷もございますが、元はカウンターのみお店でした!

 

そんなことで、めでたくお店が完成!!

ん?

なんとか1ヶ月。

こない。

お客様がこない!

 

1週間こない。

 

本気で墨田川に飛び込んで死のうと考えましたが

いや死ぬ気になったら何でもできる!と・・・・・

 

いろいろ書いて参りましたが、思い返しますとご縁だけでよくここまで生きてきたもんだとつくづく思います。出会いに感謝です。

 

ほんとうに長々とお読みになって頂きありがとうございました。

 

どうぞこれからもお付き合いのほどよろしくお願い申し上げます。

 

黒須法明